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聖歌は生歌

聖歌は生歌

詩編を祈る

教会は、古来から、さまざまな祈りを育んできましたが、イエス・キリストにまで遡る、最も古く、大切な伝統が、こ
の、詩編を歌う(祈る)ことです。
 詩編は、ヘブライ語では「テヒリーム」と言い、「アレルヤ唱」の語源でもある「ハレル」が語幹です。「ハレル」、「「テ
ヒリーム」は、「賛美(する)」という意味で、これはまた、歌うことをも意味しています。すなわち、詩編は神への賛美
の歌であり、本来歌われるものです。
 最後の過ぎ越しの食事、すなわち最後の晩餐の時、イエスは、ユダヤ教の伝統に従い、定められた詩編を歌って
から、弟子たちとともに出かけてゆきました。その前にも、会堂で、神殿で、キリストは当時の礼拝様式に従って詩編
を歌ったことは間違いありません。さらに、十字架上でも主は、詩編22を祈られました。 『聖書』には、最初の一節し
か書かれていませんが、ユダヤ教の伝統では、詩編の一節を祈ることはその詩編全体を祈ることで、十字架上での
詩編22の祈りは、その、最後の希望まで、神にささげたことを意味しています。
 キリストは、復活後、エマオでふたりの弟子たちに現れたとき、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体に
わたり、御自分について書かれていることを説明され」(ルカ24:27)ました。この中にも、もちろん、詩編が含まれて
います。キリストが昇天された後、弟子たちは、力強く、主の復活をあかししましたが、そのときに、復活の根拠とした
ものも詩編です。まず、五旬祭のとき、ペトロは集まった人たちに向かって、ダビデが預言したキリストの復活につい
て、詩編16を引用しました(使徒2:25-36)。また、パウロはアンティオキアの会堂で、詩編2および16をキリスト
の復活のあかしとして用いました。
 このように、主キリストも弟子たちも、詩編をその復活についての預言として、いつでも話していたということは、詩
編について(もちろん『聖書』=旧約聖書全体について)暗記していたことは疑いの余地がありません。この時代、ガ
リラヤでは、会堂での聖書教育が盛んで、いわゆるユダヤ地方=南ユダよりもはるかに、聖書教育の水準は高く、高
名なラビを一番多く輩出していました。よく、『聖書』の中で、ユダヤ人がイエスや弟子たちを「ガリラヤ出身」ということ
で、さげすんでいますが、これは、昔は、ユダヤ地方が文化の中心だったからで、日本で言えば、江戸時代、すでに
文化の中心が江戸に移ってからも、京都の公家が、江戸を「東蝦夷のおじゃるところ」と言っていたのと同じです。
 さて、弟子たちは、当時のユダヤ人と同じように、会堂に礼拝に行き、エルサレムの神殿で祈っていましたが、ロー
マ帝国によってエルサレムの神殿が破壊されると、ユダヤ教徒のナザレ派は、ユダヤ教から完全に袂を分かち、キリ
スト教という、新しい宗教グループとして歩み始めます。この当時、まだ、キリスト教はローマ帝国内で宗教として認
められておらず、「キュリオス=皇帝」を否定し、「唯一のキュリオスはイエスである」という宣言をしたために、迫害の
対象となっていました。それでも、キリスト者は勇敢に「キュリオス=イエス」と宣言を続け、特に、週の初めの日=キ
リストが復活した日に、夜明け前に集まってミサを行っていました。トラヤヌス皇帝の友人で、ポントスの総督であっ
た、小プリニウスは、キリスト者が、夜明け前に集まって、神に祈るように、互いに歌い交わしながら、キリストに向か
って祈っていることを皇帝宛の書簡で書き記しています。これは、詩編の共唱であったのではないかと、考えられて
います。他にも、3世紀初頭にカルタゴで殉教した聖フェリキタスも競技場に引き出されたとき、詩編を歌ったと伝えら
れています。このように、詩編は、初代教会の人々にとって、この世における最も大切な祈りだったと言えるのです。

 コンスタンティヌス皇帝によるミラノの寛容令によって、キリスト教が、ローマ帝国の宗教として認められると、詩編
はキリスト者の祈りとして、さらに重要性を増してきます。砂漠で隠遁生活をする修道者たちにとって、詩編を祈ること
は、毎日の大切な日課でした。ヴルガタ訳聖書を編纂したヒエロニムスは、エルサレムでは詩編を歌う声の他には
何も聞こえない(直訳すると詩編以外は沈黙である)、と書いています。東方の教父のひとり、ヨハネ・クリゾストモス
も、文字や文法を知らない人でさえ詩編を暗唱し、いつ、どこの礼拝でも、詩編が中心になっていると書いています。
このような、詩編で祈る東方の伝統は、西方の教会にも伝わります。西方教会の神学の基礎を築いたアウグスティヌ
スはいろいろなところで、詩編について触れていますが、彼の師のアンブロシウスが詩編を導入したのは、東方教会
の伝統に従ってのことで、この、詩編の導入によって、当時アリウス派の異端の危機にさらされていた、ミラノの教会
は、この苦難を乗り越えることが出来、それ以来、西方各地の教会も、ミラノの教会に倣って、詩編を歌うようになり
ました。このように、教父の時代にも、詩編はキリスト者の重要の祈りとされていたのです。
 西方教会の伝統的な聖歌であるグレゴリオ聖歌でも詩編は重要です。よく知られている、グラドゥアーレや入祭唱
をはじめとする、いわゆるミサの固有式文においてはもちろんですが、グレゴリオ聖歌の中で、最も中心であり、最も
重要なレパートリーである聖務日課でも、詩編唱は欠かすことができません。もともと、入祭唱や拝領唱では、行列
の間、応唱と詩編が繰り返されていましたが、司祭がミサを個人的に司式するようになると、行列も行われなくなり、
詩編も、形式的に、一節だけ歌うようになったのです。

 東方の修道院制度を模範として、ベネディクゥスによってモンテカッシーノで始まった、西方の修道院でも、詩編は
祈りばかりではなく、生活の一部としても重要なものとされました。修道院の修道士たちは詩編を唱えることで、神と
対話し、聖なる時間を過ごします。もちろんこの伝統は今でも、続いています。しかし、時代が下ってくると、一般の人
たちにはラテン語が分からなくなり、修道院以外では、詩編から信仰の糧を得ることができなくなり、詩編の祈りはだ
んだんと影を潜めてゆきます。修道院でも、詩編を唱えることは、ことばを味わうことから唱えること自体が目的とされ
るようになり、ある修道院では、一人の修道士が一日、250の詩編を唱えるようになってゆきます(ちなみに、詩編は
全部で150です)。このような中で、新しく生まれた信心が「デヴォティオ・モデルナ」という内面的な信心業で、その
中心は、共同体としての祈りではなく、個人の祈りや黙想でした。一般信徒は詩編を唱えることはもちろん、典礼にも
行動的に参加することができなくなり、代わりに、ロザリオなどの個人的・信心的な祈りが信仰生活の中心を占める
ようになります。ちなみに、「光の神秘」が加わる前のロザリオは、全部で、「聖母マリアへの祈り」を150唱えていま
したが、この150という数字は、詩編の150から取られているのです。

 第二バチカン公会議は、詩編について、感謝の祭儀(ミサ)でも、教会の祈りでも、大幅な刷新を行い、それらの中
で重要な位置を与えました。まず、ミサで一番最初に、教会の伝統に従って復興されたものが「答唱詩編」です。答
唱詩編については、答唱詩編のページをご覧ください。もう一つ、詩編で刷新されたものは「教会の祈り」です。つ
い、最近まで、教会の祈りは司祭や修道者の唱えるもの、と考えられていましたが、現在では、神の民すべての祈り
として、信徒が集まった場合にも、個人でも、唱えるようにと勧められています。
 もともと、詩編は、ヘブライ語で「賛美の歌」、ギリシャ語で「琴の音に合わせて歌う賛歌」であり、すべての詩編は
音楽的性格を持っており、本来は、歌われることがふさわしいのです。
 なお、先にも書いたように、グレゴリオ聖歌の伝統から見ても、ミサの行列の歌(入祭・奉納・会食=拝領)では、行
列が行われている間、詩編唱のついたものを歌うことが、教会の伝統にかなうものです。

 詩編は、『聖書』として神のことばですが、同時に、詩編作者がそれぞれの状況の中で神に祈った、人間のほうか
らの神に対する応答でもあります。詩編で祈ることは、神と人との仲介者となったキリストとともに祈り、キリストによっ
て願うことであり、キリストの死と復活にあずかる洗礼によってキリストに結ばれ、その、預言職・王職・祭司職に参与
するわたしたちが、まさに、キリスト(油注がれたもの)として神にささげることなのです。確かに、詩編はあまりなじみ
のない祈りとなってしまいましたが、教会は、最も大切な祈りとして神の民全体の祈りとしてきました。今でも、ミサの
詩編唱として、教会の祈りの詩編唱和として、世界のどこかで、必ず詩編が歌われているといっても過言ではありま
せん。わたしたちも、このキリストにまで遡る教会の尊い祈りである詩編を、わたしたちの祈りの歌としてはぐくむとと
もに次の世代に伝えてゆきたいものです。



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